北海御廟の歴史
長谷得静は大正5年2月、北海道寺務出張所長を拝命し、赴任の途中、東京霞が関に隠棲されている現如上人をお訪ねした。その時上人が北海道は自分の一生涯において最も思い出の多い土地であるから、自分の死後には分骨して札幌に埋めてほしいと思うと意中を漏らされた。それで着任後、直ちに小谷真了札幌別院輪番に相談したところ、小谷は早速別院総代遠藤石太郎、西尾長次郎に協力を依頼し両人は承諾した。
御廟建設地として札幌市郊外の円山を第一候補地に挙げ、払い下げを出願したが、官有保安林であるために払い下げは困難ということが判明した。
大正6年1月、小谷輪番退任に際し、遠藤と西尾とは御廟敷地は未定であるが、敷地が決定したらすぐ代金を支払わねばならないからということで、遠藤は五千円、西尾は千円を小谷輪番に差し出した。小谷輪番は別院会計に渡し定期預金とした。
大正7年春、北海道教区の国役会に前記事情を報告し意見を聴取したところ、満場一致で現如上人のご意向を尊重し、北海道庁が開道50年記念博覧会を計画しているが、真宗大谷派も開教50年記念事業として御廟を建設することを決定、長谷所長を委員長として御廟建設準備委員会を設置した。
大正8年2月、長谷所長は転任し、安田力が再度北海道所長に任命された。爾来、適当な敷地を探すことに準備委員会は苦心を重ねたが容易には見当たらなかった。
大正10年1月、札幌郊外の藻岩村藻岩下において畑11町7反余を所有者である佐藤松平(札幌別院世話方)が御廟建設のためなら売ってもよいと申し出た。この土地は藻岩山麓の緩やかな傾斜地帯で札幌市街を一望の中に眺めることができ、風光明媚、御廟建設地としては最適である。双方協議の結果、土地代金は二万千円と決定した(佐藤松平は三千三百円を寄付)。前田庄次郎別院会計からも千円の寄付があり、安田所長は本山へ上申書を提出した。
なお、北海道教区は法人資格がなく、土地所有権の主体となることができないため、本山に嘆願して大正10年12月30日所有者本願寺として土地所有権の移転登記を完了した。
御廟建設地として札幌市郊外の円山を第一候補地に挙げ、払い下げを出願したが、官有保安林であるために払い下げは困難ということが判明した。
大正6年1月、小谷輪番退任に際し、遠藤と西尾とは御廟敷地は未定であるが、敷地が決定したらすぐ代金を支払わねばならないからということで、遠藤は五千円、西尾は千円を小谷輪番に差し出した。小谷輪番は別院会計に渡し定期預金とした。
大正7年春、北海道教区の国役会に前記事情を報告し意見を聴取したところ、満場一致で現如上人のご意向を尊重し、北海道庁が開道50年記念博覧会を計画しているが、真宗大谷派も開教50年記念事業として御廟を建設することを決定、長谷所長を委員長として御廟建設準備委員会を設置した。
大正8年2月、長谷所長は転任し、安田力が再度北海道所長に任命された。爾来、適当な敷地を探すことに準備委員会は苦心を重ねたが容易には見当たらなかった。
大正10年1月、札幌郊外の藻岩村藻岩下において畑11町7反余を所有者である佐藤松平(札幌別院世話方)が御廟建設のためなら売ってもよいと申し出た。この土地は藻岩山麓の緩やかな傾斜地帯で札幌市街を一望の中に眺めることができ、風光明媚、御廟建設地としては最適である。双方協議の結果、土地代金は二万千円と決定した(佐藤松平は三千三百円を寄付)。前田庄次郎別院会計からも千円の寄付があり、安田所長は本山へ上申書を提出した。
なお、北海道教区は法人資格がなく、土地所有権の主体となることができないため、本山に嘆願して大正10年12月30日所有者本願寺として土地所有権の移転登記を完了した。